2000年5月15日、事故発生。
児島健仁(こじまけんと)、わたしの息子はそれから2週間、生命を燃やし生きました。
ここに綴る出来事は、すべてわたしたちが経験した事実です。
ある日突然事件が起きたとき、当事者がどのような境遇に立たされるのか当時の私はまったく知りませんでした。
近代化された現代の日本において、個人である被害者やその遺族が遭遇する現実はあまりにも厳しいものでした。
組織力を持つ大きな相手に対し、個人はおびえ、苦悩し、貝になることを迫られます。
息子の最後の2週間、わたしも側で共に闘いました。
死を恐れ、おののきながら‥‥
しかし、終わりの瞬間まで”生きる”と信じました。
息子との14日間の恐怖の中の”命の闘い”が貝になることを拒みました。
今、声を上げます。
組織により、何が個人に行われようとしたか。
公開します。
事故後、遺族の身に何が起きたか。
事件に対し、私たちが切実に望んだものは“情報公開”でした。
真実はそこにあるからです。
しかし、情報は決して向こうから開かれるものではなく
この手で掴まなければならないものである事を身を以て知りました。
発信します。今を精一杯、この世に生きるため。
慟哭(どうこく)の道が後ろについています。
哭きながらでも道を前進します。
息子の、今もこの身の中に生きる”生命”を抱え、声を上げ、歩んでいきます。
児島 早苗